- 序章 -
ボクシングとは何だろうか?。
スポーツ?。いや違う。スポーツとは肉体的に相手を痛めつける事を主たる目的としていない。生意気で失礼な対戦相手の鼻っ柱を折る事を目的とする試合はあるだろうが、肉体的に傷める行為、傷めかねない行為はルール違反とされてしまう。
格闘技?。広い意味ではそうだろう。だがその歴史において、格闘技とボクシングは、その存在意義が異なる。格闘技は、戦場において相手を倒す、あるいは護身のために生まれたものだが、ボクシングは単なる見世物として生まれたとされている。
ボクシングの起源は曖昧にしか分かっていない。それは、ボクシングの起源とされているものが、野球やサッカーなどと違い、非常に古い時代まで遡らなければならないからだ。極論を言えば、ボクシングに道具は要らない。複雑なルールも要らない。必要なのは、2本の腕ではなく、動く肉体だ。圧倒的に不利なのは明確だが、腕1本でボクシングをする事も出来る。だが、テニスやクリケット、ボスケットボールには、それが粗末な物でもかまわないが何らかの道具を必要とする。道具が必要ない、それがボクシングの起源の古さを明確に物語る。
史実では、紀元前4000年前、エジプトの軍隊でボクシング(に良く似た格闘術)が行われていたらしい。だから、前述のボクシングと格闘技は、その存在意義が異なると言う僕の意見は間違いと言う事になる。ボクシングも、戦場で使われる格闘技だったのだ。紀元前4000年前と言えば、エジプトに鉄器が無かった、あるいは鉄器が普及し始めた時代だから、ボクシングは戦場においてとても有効な格闘術だっただろう。
それでもやはり、ボクシングと格闘技の間にある高い壁は取り除けない。それは、中世のヨーロッパにおいて、ボクシングが、時に、死を見世物にするショーだったからだ。紀元前668年の古代オリンピック第23回大会では、ボクシングが正式種目となったが、この当時のボクシングは、皮のバンテージで拳を包んだが、肘で相手にダメージを与える事も許され、ラウンドと言うルールも無かった。試合は、どちらかが戦えなくなるまで、時には死ぬまで殴りあった。選手の死に観衆は歓喜し、勝利者は、名誉ある勝利者と成り得たのだろうか?。多分そうだったのだろう。だが、そんな野蛮な物がスポーツと言えるだろうか?。
人類は、きっとこの地球に誕生してきた時からずっと戦争をしてきたのだろう。文字が無かった、あるいは何らかの理由で文字が現存していないため、正確な歴史は分かっていないが、1万年前エジプトではすでに人々は殺し合いを行っていたらしい。以来、地球上の至る所で、あらゆる時代に戦争は行われてきた。自分とは異なる物、自分達とは別の集団の存在を許せないのは、人間の本能だろうか?。古代のボクシングにおいて、選手の死に歓喜する観衆と、大勢の人を殺し、戦争に勝って勝鬨を上げた集団は、人間の本能の一つをを表現したと言う意味で、同じなのだろうか?。
ジョー・フレイジャーを倒したジョージ・フォアマンのフック。
ロベルト・デュランを失神させたトーマス・ハーンズのチョッピング・ライト。
明らかに勝負はついているのに、気を失っているように見えるのに、マービス・フレージャーに倒れることを許さずアッパーで彼の状態を起こし、その顔に拳を叩きつけるマイク・タイソンの狂気。
あれらは、スポーツと呼べるのだろうか?。スポーツの範疇だと言えるのだろうか?。
観衆は、判定など望んでいない。見た事も無い、想像した事も無い、そんな壮絶なノックアウトを望んでいる。それは、選手が怪我をする、あるいはその命を落とす事さえあり得る。グローブは付けているが、その観衆の無責任な興味は、古代ボクシングと何ら変わっていない。
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